日曜教学事始め

お釈迦さまや世親さま、親鸞さまのことなど

ちまちま書いているもの⑧

さとりの智慧の生起

 

 「桃栗三年柿八年」という言い回しがありますが、これをもじって「唯識三年倶舎八年」という言い回しがあります。これは『俱舎論』の学びを八年続ければ、難解なことで知られる唯識思想は三年の学びで理解出来るという意味だそうです。『俱舎論』とは『阿毘達磨俱舎論(アビダルマコーシャ・バーシャ)』という仏典の略称で、浄土真宗七高僧第二祖である天親菩薩の手による論書です。この『俱舎論』は説一切有部という部派の教義学についてまとめられたもの(※正確には、天親菩薩が説一切有部の論説をまとめながら批判した書物だそうです)になり、特に奈良時代以来仏教の基礎学として大切に学ばれてきました。

 一方、唯識思想も天親菩薩が大成者として知られております。特に『唯識三十頌』という短い偈頌は、伝承によれば天親菩薩生涯最後の著述であり、解説を担う散文にまで手が回らなかったそうです。そのため、天親菩薩のご往生後に『唯識三十頌』をめぐって、様々な立場から解説が試みられた模様です。この唯識思想については、奈良時代法相宗の伝統が日本に伝わり、現在でも興福寺薬師寺を本山として伝わっております。なお、先述の『倶舎論』の学びは「倶舎宗」として同時期に伝わりましたが、法相宗の学びの補助(寓宗)として取り込まれた模様です。

 いずれにしても、「唯識三年倶舎八年」という言葉が示すように、特に『俱舎論』で説かれたような心の動きの理解が、唯識思想を学ぶ上で大きな役割を果たすことは間違い無い模様です。ただ、『俱舎論』で説かれる説一切有部の教義学と唯識思想との間には、前者が「小乗仏教」と括られ、後者が大乗仏教を標榜するということもありますが、なにかしらの飛躍があることも想定できます。それは一体、どのようなポイントなのでしょうか。

 

 仏教で最も不思議なことは何かと言えば、私たちの心の中に仏の智慧が出て来ることとなります。仏教では、私たちを構成する五蘊全てが不完全であることを前提としますから、その五蘊で構成されたわが身から仏の智慧が出て来ることは、原理的にあり得ないことなのです。この点は、歴史的な人物として仏陀となったゴータマ・ブッダがこの世を去ってから、ずっと考えられてきたことでもあります。また、浄土真宗では『大般涅槃経』において釈尊の説法を聞いた阿闍世王に信仰心が芽生えたことを「無根の信」として、とても大切にいたします。

 ブッダの教えのフレームとして知られるのが三法印です。これは一般的には「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つで知られておりますが、パーリ仏典で最もポピュラーな『ダンマパダ』など「諸行無常」「諸法無我」に「一切皆苦」を加えて三法印とするパターンもあります。また、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」の四つを四法印とする場合もあります。

 この「一切皆苦」と「涅槃寂静」は全く逆の概念です。前者はこの迷いの世界、後者は目指すさとりの世界を表しております。此岸から彼岸へ、迷いの世界からさとりの世界へと歩んでいくのが、仏教の基本構造です。この迷いの世界からさとりの世界へと悟入するために、「諸行無常」と「諸法無我」の理を体得しなければいけないというわけです。

 さて、ブッダ亡き後、仏教教団は最終的には十八のグループ(部派)に分裂しました。この数ある部派のうち、教義学を最も発達させ、数多くの論書を残すことにより、後代の仏教に大きな影響を残したのが説一切有部です。この部派は、この現象界を構成する存在(法)の分析を進め、因果の道理にしたがって無常な世間(現象界)を構成する有為法として七十二の要素を、因果の道理を超えた出世間を構成する無為法として三つの要素を見出しました。そして、私たちの複雑な心の動きについても、有為法の因果関係として把握致します。

 説一切有部では、戒・定・慧という三学を通して、涅槃を目指して修行致します。この修道においては、当然ながら心の中の動きは有為法から別の有為法への因果関係として記述されます。有為法間での因果関係である以上は、それはさとりの世界に属するものではない「有漏の心」とされます。しかし、修行を通して「有漏の心」から「無漏の心」に転換すると説きます。この転換が起こって後は、「見道」に入ったとされ、涅槃を目指して「聖者の道」を歩むこととなります。

 しかし、説一切有部研究の世界的第一人者であった櫻部建先生によれば[i]、「有漏の心」から「無漏の心」への転換については、説一切有部の論書においては、その具体的な仕組みまでは十分には書いていない模様です。また、同じく多数の論書を現代まで伝えている上座部大寺派においても、「種姓(の転換)の智(ゴートラブーニャ)」という概念で説明するも、その仕組みについて具体的に踏み込めていない点は同様の模様です。

 櫻部先生によれば、この転換の具体的な仕組みに踏み込んだ一つが、瑜伽行唯識派の論師で知られる無著菩薩の『摂大乗論』だそうです。唯識思想では、通常の意識の奥底に第八識として阿頼耶識があると説きます。この阿頼耶識を場として、清浄なさとりの世界から流れ出る教説を聞くこと(聞薫習)を種子として、そこから「無漏の心」が生じるとしているのです。ここでは、清浄なさとりの世界から迷いの世界へのはたらきかけを積極的に説きはじめたことが、大きなポイントとなります。

 この無著菩薩の理論を引き受けて、弟にあたる天親菩薩が『唯識二十論』や『唯識三十頌』でもって唯識思想を大成していくこととなります。「唯識思想では、何故阿頼耶識を説くのか」と言えば、仏教において最も不思議な出来事である「有漏の身に、無漏のさとりの智慧がどうして起こるのか」を説明するためだったと言えそうです。

 なお、さとりの世界からのはたらきかけの問題については、「ブッダの本質とは何か」という仏身論について踏み込む必要がありそうです。これは、機会を改めたいと思います。

 

[i] 櫻部建「無漏の慧はいかにして生ずるか」(『駒澤大学仏教学部論集』23,1992年)