日曜教学事始め

お釈迦さまや世親さま、親鸞さまのことなど

ちまちま書いているもの⑦

結集伝承について

 ゴータマ・ブッダは八十歳で入滅しました。その様子は、中村元先生が『ブッダ最後の旅』という名前で和訳されたパーリ仏典『長部』に収録された「マハーパリニッバーナ経(大般涅槃経)」に詳しく記載されております。なお、親鸞聖人が『教行信証』で度々引用されている『大般涅槃経』とは、同じブッダの入滅をモチーフとした経典ではありますが、全く違う経典です。

 ブッダは、現在の私たちの多くと同じく、荼毘(火葬)にふされました。その遺骨を巡っては、「王舎城の悲劇」でお馴染みのマガダ国王アジャータサットゥ(阿闍世)をはじめとする八つの部族が争う事態となりました。しかし、そこにドローナという名のバラモンが仲裁に入り、遺骨を八つに分け、それぞれの部族に分配し、遅れてきた部族には遺灰を、そしてドローナ自身は甕をもらいうけ、それぞれがブッダの遺言に従い、半球型のストゥーパ(仏塔)を造って祀ることとなりました。

 さて、ブッダの死後に、彼の説いた教えは、彼が率いた教団はどうなったのでしょうか? その問いに答える前提として、「生前中にブッダはご自身の説法を文字には残されなかった」という点を確認しておくことが重要です。インドで初めて、解読できる文字が確認されるのは、ブッダがお亡くなりになってから暫く後、紀元前三世紀半ばに活躍されたアショーカ王がインド各地に刻まれた碑文が最初です。ブッダの生きた時代に書かれた文字は、今のところ発見されていないのです。

 また、インドではヴェーダ以来、宗教的な言葉は口伝で伝えるべきものであって、文字で記録してはならないという意識がありました。現在のヒンドゥー教の母体であるバラモン教は『リグ・ヴェーダ』をはじめとするヴェーダ文献に基づいた宗教です。このヴェーダ文献は、古代の聖仙(リシ)が神々から啓示を受けて成立したと伝えられており、司祭階級であるバラモンの間で、親から子へと口頭伝承という形で伝えられてきました。この文化は現在でも続いており、バラモンのなかでも「パンディット」と呼ばれる方々はヴェーダ文献やその注釈書を全て記憶しているそうです。逆に、こうした聖なる言葉を文字に残すことはタブーとされておりました。今でもインドの人々は自らの国を「バーラト(バラタ族の国)」と呼びますが、そのバラタ族がインダス河流域に侵入して争ったことを記した叙事詩マハーバーラタ』では「『ヴェーダ』を書き写した者は地獄に落ちる」と注意してあるそうです。

 仏教徒でも事情は同じで、教えの言葉は師僧から弟子へと口頭伝承という形で伝えられたと考えられております。京都大学で仏教学を講じられた梶山雄一先生は、若き日にインドのナーランダー仏教研究所に滞在されていたそうですが、そこで所長を務められていたカシャップ先生というスリランカで学ばれた学僧が梶山先生の前でご自身の記憶している「長部(ディーガニカーヤ)」を暗唱されたそうです。果たして、手元のテキストと一言一句違わず暗唱されたことにとても驚かれたとのことです。

 勿論、バラモン教と仏教とでは、異なる事情もあります。『リグ・ヴェーダ』をはじめとするヴェーダ文献は現在では文字になっておりますが、それは現在でも使われているサンスクリット語と同一ではありません。それらの言語は「ヴェーダ語」と呼ばれているそうです。このヴェーダ語を紀元前四世紀(※ブッダが亡くなられ、アショーカ王が出てくる間!)にパーニニという人が分析し、文法を整理したことで誕生したのがサンスクリット語になります。先述の通り、ヴェーダ語で語られたヴェーダ文献は神々から賜った言葉ですから、勝手に別の言葉に翻訳することは許されません。

 一方、ブッダがお話になった言語は、残念ながら正確には分かりません。テーラワーダスリランカやタイなどの上座部仏教)では「ブッダパーリ語をお話になった」という伝承がありますが、それは五世紀以降に創られた由緒になります。なお、ドイツのヒニューバー先生という方は「『アーリア語』を話した」という説を立てられています。

 さて、インドは広いものですから、場所によって言葉が違います。ブッダは伝道にあたって、お弟子方に「その土地の方言で話すように」とお伝えになったという話もあります。加えて、バラモン階級の言語であるヴェーダ語(のちのサンスクリット語)を採用することは望まれなかったという伝承もあります。ですから、ブッダのお言葉はインド語に限らず中国語や現代の日本語、さらには英語などにも翻訳されているので、そのことを知ったらブッダはとても喜ばれるかもしれませんね。

 大分、喋りすぎてしまいましたが、第二の理由に進みましょう。ブッダにとって、「言葉」というものは、私たちを迷いから解き放つはたらきを持つと同時に、逆に私たちを迷いのなかに閉じ込めるはたらきも持っていると考えていたからです。

 とある経典では、ブッダは「四種類の人間がいる」と語っておられ、一番問題なのは良く聞いて、良く記憶しているものの、言葉に捉われてしまっている人間だとしております。難しい話になりますが、ヴェーダ語では言葉とその意味とが一対一で対応しており、そこに解釈の余地はありません。けれども、私たちの日常の言葉ですと、言葉に対して解釈が介在するので、そこに複数の意味が生まれます。そこに、私たちの言葉の難しさがあります。

 「蛇喩経」という経典では、お弟子のアリッタに毒蛇を捕まえる時に頭を押さえれば安全だけれども、胴体を押さえると逆に噛みつかれるので危険であるというたとえ話をして、それと同じく言葉も適切に受け止めなければ自身を害することになると注意を促しております。また、そこでは有名な「筏のたとえ」も出てきます。すなわち、川を越えるために筏を作ったとして、一度川を越えたならば、その筏は捨て去らなければならないという内容です。ここで「筏」とは、言うまでもなく教えを記した言葉のことです。

バラモン教と同じく、仏教教団でもブッダの教えを口伝で継承していたと考えられますが、そこでキーパーソンとなるのが、いつもブッダの側におられたとされるのが阿難尊者(アーナンダ)です。三十五歳に鹿野苑(現在のサールナート)で行われた最初の説法(初転法輪)から八十歳の沙羅双樹(現在のクシナガラ)で入滅前に行われた最後の説法に至るまで、数多くの方に法を説かれました。特にブッダの後半生において、いつもブッダの側にいて、彼の説法を記憶していたとされるのが『大無量寿経』でも登場する阿難尊者なのです。

 

 さて、ブッダの入滅に際して、遅れて到着したマハーカッサパ尊者(摩訶迦葉)は、さる弟子の「これで我々は自由になった」という暴言を耳にします。ブッダの教えが正しく伝わらないことを危惧した最長老格のマハーカッサパ尊者は(ブッダと同じ)阿羅漢のさとりを得た五百人の仏弟子を招集します。この会議のことを結集(けつじゅう、サンギーティ)と言います。声がかかった五百人のお弟子さんの中には、阿難尊者の名前はありませんでした。阿難尊者は、阿羅漢のさとりを得ていなかったのです。けれども、ブッダの説かれた教えを後世に残すためには、ブッダの説法を一番良く記憶していた阿難尊者の存在が不可欠です。必死に修行に励んだ阿難尊者ですがなかなか目覚めの時は訪れません。結集の朝、不眠不休の修行で疲れ切って寝床に倒れ込んだその刹那、阿難尊者は阿羅漢果の目覚めを得たと伝えられております。

 いよいよ結集です。最初に摩訶迦葉尊者の前に呼ばれたのは優婆離尊者(ウパーリ)です。この方は、出家する前はブッダをはじめシャカ族の髪を切る床屋さんでした。彼は、出家者が守るべき道徳規範(戒)と教団の中で守るべきルール(律)に詳しかったため、律蔵の編纂の中心人物となりました。なお、出家者が守るべき条項「波羅提木叉(パーティモッカ)」は短い文章がズラズラと続くため、後にサンスクリット語で書かれた箴言集「スートラ」になぞらえて「スッタ」と呼ばれたという説があります。その証拠に『律蔵』のなかで「波羅提木叉」の由来を説明した部分が「経分別(スッタ・ヴィバンガ)」と呼ばれている点が挙げられます。『経蔵』ではない『律蔵』の中に「経」があるなんて、何だか不思議ですね。

 つづいて、摩訶迦葉尊者の前に呼ばれたのは阿難尊者です。阿難尊者が「私はこのように聞きました(如是我聞)」とブッダの説法について唱えだすと、周囲の仏弟子が「そうだった、そうだった」と次々と加わります。実は、この結集のインド語は「サンギーティ」といっても元々の意味は「共に唱える」という意味なのです。

こうした結集の結果、ウパーリ尊者(優婆離)を中心に、出家者が守るべき道徳規範(戒)と教団の中で守るべきルール(律)が編纂され、アーナンダ尊者(阿難)を中心にブッダの説いた教え(法)が編纂されました。また律と法に加えて、「論」も結集において成立したという興味深い伝承もありますが、それは別のところでご紹介出来ればとも思います。