日曜教学事始め

お釈迦さまや世親さま、親鸞さまのことなど

ちまちま書いているもの⑥

縁起について

 先ほど、「ゴータマは三明を得て、四聖諦を認識し、ブッダとなった」という伝承をご紹介しました。しかし、私たち大乗仏教徒にとって、より有力な伝承として伝わったものは「ゴータマは縁起の法を得て、ブッダとなった」というものです。

 パーリ語で書かれた仏典は、「三蔵(トリピタカ)」といって、大きく「律蔵(ヴィナヤピタカ)」「経蔵(スッタピタカ)」「論蔵(アビダンマピタカ)」の三つに分かれます。このうち、最初の「律蔵」は大きく「経分別(スッタヴィバンガ)」と「犍度(カンダカ)」に分かれます。「律」のなかに「経」があるって、何だか不思議な感じがしますね。もしかしたら、この不思議な構成が後世に与えた影響について、後で触れることが出来るかもしれません。さて、後者の「犍度」は、教団において出家者が守るべき規則と、それが出来た由来について書かれております。その「犍度」内の「大品(マハーヴァッガ)」の冒頭には、ブッダの成道から二大弟子である舎利弗尊者(サーリプッタ)と目連尊者(モッガラーナ)が弟子になるまでが記述されております。

 それによれば、青年ゴータマは十二の項目からなる縁起「十二支縁起」を「順に」そして「逆に」観察したとされております。十二の項目とは①無明②行③識④名色⑤六処⑥触⑦受⑧渇愛⑨取⑩有⑪生⑫老死になります。なお、縁起は「十二支縁起」に限定されたものではなく、⑧~⑫の五項目からなる「五支縁起」や③~⑫の十項目からなる「十支縁起」というものもあります。

 この縁起の観察において、青年ゴータマが採用したのが「此縁性」と呼ばれる定型句だと考えられております。その内容は「これあるとき、かれあり、これの生じることによって、かれが生じる。これなきとき、かれなく、これの滅することによって、かれが滅する」というものです。青年ゴータマはこの定型句の前半に従って、①無明(=真理の無知)があるときに②行(=再生にみちびく行為)があり、①無明の生じることによって②行が生じる……と①から⑫まで順番に観察をおこない、最終的に①無明が生じることによって⑫老死の苦悩が生じることに辿り着きました。これは「順観」と呼ばれております。また、①無明から⑫老死の苦悩までのプロセスは、衆生の迷いの様相を表しておりますので「流転門」と呼ばれます。

 青年ゴータマは、つづいて定型句の後半に従って、①無明がないときに②行はなく、①無明が滅することによって、②行が滅する……と①から⑫まで順番に観察をおこない、最終的に①無明を滅することによって⑫老死の苦悩を滅することができることに辿りつきました。これは、日本語で考えると変な感じもしますが、伝統的に「逆観」と呼ばれております。また、①無明の寂滅から⑫老死の苦悩の寂滅までのプロセスは、衆生が苦悩から解放され、さとりへと向かう様相を表しておりますので、先述の「流転門」に対して「還滅門」と呼ばれます。

 それでは、この「順観」と「逆観」によって、ブッダは何に目覚めたのでしょうか? 仏教論理学という分野の第一人者である桂紹隆先生によれば、この「此縁性」と呼ばれる定型句は「これ」と「かれ」との間の因果関係を確定するものとされています。これを踏まえて、ブッダは「『およそいかなるものも原因なくして生じることはない』という縁起の理法・因果の道理を悟った」のだと桂先生は指摘されていますが、これを私なりに受け止め直せば、私たちの「どうしてこんなに苦しいんだ、悲しいんだ」という苦悩は決して解決不可能なものではなく、全ては因果関係の上に成り立っている以上は、そこには「無明」という原因が存在し(=集諦)、その解消方法も存在し(=道諦)、その方法を実践すれば苦悩は解消する(=滅諦)ということをブッダは明らかにされたのではないでしょうか。

 なお、この①無明の正体、そしてその解決方法については、ブッダがお亡くなりなってから五百年ほど後に南インドで活躍した、浄土真宗七高僧の一人としても知られるナーガールジュナ(龍樹菩薩)によって主著『根本中頌(中論)』において本格的に考究がなされることになります。この考究については、後で改めて触れてみたいと思います。

 さて、この縁起説をめぐってはパーリ仏典『相応部』に収録されている「城邑経」に興味深い記述があります。この「城邑経」はブッダ成道の様相を仏弟子の前で回顧する経典ですが、そこでは③識から⑫老死までの十項目による十支縁起を説きます。そこでブッダは「私は過去の正覚者たち(=諸仏)が辿ってきた道を見つけたのだ」と説いているのです。ナーガールジュナは『根本中頌』において、ブッダの説かれた十二支縁起を「空性」の教えと捉え、この空性の教えは「諸仏(=複数形のブッダ)が説かれた教え」として自説を主張しますが、こうした発想はこの「城邑経」などに由来するのかもしれません。