日曜教学事始め

お釈迦さまや世親さま、親鸞さまのことなど

ちまちま書いているもの⑧

さとりの智慧の生起

 

 「桃栗三年柿八年」という言い回しがありますが、これをもじって「唯識三年倶舎八年」という言い回しがあります。これは『俱舎論』の学びを八年続ければ、難解なことで知られる唯識思想は三年の学びで理解出来るという意味だそうです。『俱舎論』とは『阿毘達磨俱舎論(アビダルマコーシャ・バーシャ)』という仏典の略称で、浄土真宗七高僧第二祖である天親菩薩の手による論書です。この『俱舎論』は説一切有部という部派の教義学についてまとめられたもの(※正確には、天親菩薩が説一切有部の論説をまとめながら批判した書物だそうです)になり、特に奈良時代以来仏教の基礎学として大切に学ばれてきました。

 一方、唯識思想も天親菩薩が大成者として知られております。特に『唯識三十頌』という短い偈頌は、伝承によれば天親菩薩生涯最後の著述であり、解説を担う散文にまで手が回らなかったそうです。そのため、天親菩薩のご往生後に『唯識三十頌』をめぐって、様々な立場から解説が試みられた模様です。この唯識思想については、奈良時代法相宗の伝統が日本に伝わり、現在でも興福寺薬師寺を本山として伝わっております。なお、先述の『倶舎論』の学びは「倶舎宗」として同時期に伝わりましたが、法相宗の学びの補助(寓宗)として取り込まれた模様です。

 いずれにしても、「唯識三年倶舎八年」という言葉が示すように、特に『俱舎論』で説かれたような心の動きの理解が、唯識思想を学ぶ上で大きな役割を果たすことは間違い無い模様です。ただ、『俱舎論』で説かれる説一切有部の教義学と唯識思想との間には、前者が「小乗仏教」と括られ、後者が大乗仏教を標榜するということもありますが、なにかしらの飛躍があることも想定できます。それは一体、どのようなポイントなのでしょうか。

 

 仏教で最も不思議なことは何かと言えば、私たちの心の中に仏の智慧が出て来ることとなります。仏教では、私たちを構成する五蘊全てが不完全であることを前提としますから、その五蘊で構成されたわが身から仏の智慧が出て来ることは、原理的にあり得ないことなのです。この点は、歴史的な人物として仏陀となったゴータマ・ブッダがこの世を去ってから、ずっと考えられてきたことでもあります。また、浄土真宗では『大般涅槃経』において釈尊の説法を聞いた阿闍世王に信仰心が芽生えたことを「無根の信」として、とても大切にいたします。

 ブッダの教えのフレームとして知られるのが三法印です。これは一般的には「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の三つで知られておりますが、パーリ仏典で最もポピュラーな『ダンマパダ』など「諸行無常」「諸法無我」に「一切皆苦」を加えて三法印とするパターンもあります。また、「諸行無常」「諸法無我」「一切皆苦」「涅槃寂静」の四つを四法印とする場合もあります。

 この「一切皆苦」と「涅槃寂静」は全く逆の概念です。前者はこの迷いの世界、後者は目指すさとりの世界を表しております。此岸から彼岸へ、迷いの世界からさとりの世界へと歩んでいくのが、仏教の基本構造です。この迷いの世界からさとりの世界へと悟入するために、「諸行無常」と「諸法無我」の理を体得しなければいけないというわけです。

 さて、ブッダ亡き後、仏教教団は最終的には十八のグループ(部派)に分裂しました。この数ある部派のうち、教義学を最も発達させ、数多くの論書を残すことにより、後代の仏教に大きな影響を残したのが説一切有部です。この部派は、この現象界を構成する存在(法)の分析を進め、因果の道理にしたがって無常な世間(現象界)を構成する有為法として七十二の要素を、因果の道理を超えた出世間を構成する無為法として三つの要素を見出しました。そして、私たちの複雑な心の動きについても、有為法の因果関係として把握致します。

 説一切有部では、戒・定・慧という三学を通して、涅槃を目指して修行致します。この修道においては、当然ながら心の中の動きは有為法から別の有為法への因果関係として記述されます。有為法間での因果関係である以上は、それはさとりの世界に属するものではない「有漏の心」とされます。しかし、修行を通して「有漏の心」から「無漏の心」に転換すると説きます。この転換が起こって後は、「見道」に入ったとされ、涅槃を目指して「聖者の道」を歩むこととなります。

 しかし、説一切有部研究の世界的第一人者であった櫻部建先生によれば[i]、「有漏の心」から「無漏の心」への転換については、説一切有部の論書においては、その具体的な仕組みまでは十分には書いていない模様です。また、同じく多数の論書を現代まで伝えている上座部大寺派においても、「種姓(の転換)の智(ゴートラブーニャ)」という概念で説明するも、その仕組みについて具体的に踏み込めていない点は同様の模様です。

 櫻部先生によれば、この転換の具体的な仕組みに踏み込んだ一つが、瑜伽行唯識派の論師で知られる無著菩薩の『摂大乗論』だそうです。唯識思想では、通常の意識の奥底に第八識として阿頼耶識があると説きます。この阿頼耶識を場として、清浄なさとりの世界から流れ出る教説を聞くこと(聞薫習)を種子として、そこから「無漏の心」が生じるとしているのです。ここでは、清浄なさとりの世界から迷いの世界へのはたらきかけを積極的に説きはじめたことが、大きなポイントとなります。

 この無著菩薩の理論を引き受けて、弟にあたる天親菩薩が『唯識二十論』や『唯識三十頌』でもって唯識思想を大成していくこととなります。「唯識思想では、何故阿頼耶識を説くのか」と言えば、仏教において最も不思議な出来事である「有漏の身に、無漏のさとりの智慧がどうして起こるのか」を説明するためだったと言えそうです。

 なお、さとりの世界からのはたらきかけの問題については、「ブッダの本質とは何か」という仏身論について踏み込む必要がありそうです。これは、機会を改めたいと思います。

 

[i] 櫻部建「無漏の慧はいかにして生ずるか」(『駒澤大学仏教学部論集』23,1992年)

ちまちま書いているもの⑦

結集伝承について

 ゴータマ・ブッダは八十歳で入滅しました。その様子は、中村元先生が『ブッダ最後の旅』という名前で和訳されたパーリ仏典『長部』に収録された「マハーパリニッバーナ経(大般涅槃経)」に詳しく記載されております。なお、親鸞聖人が『教行信証』で度々引用されている『大般涅槃経』とは、同じブッダの入滅をモチーフとした経典ではありますが、全く違う経典です。

 ブッダは、現在の私たちの多くと同じく、荼毘(火葬)にふされました。その遺骨を巡っては、「王舎城の悲劇」でお馴染みのマガダ国王アジャータサットゥ(阿闍世)をはじめとする八つの部族が争う事態となりました。しかし、そこにドローナという名のバラモンが仲裁に入り、遺骨を八つに分け、それぞれの部族に分配し、遅れてきた部族には遺灰を、そしてドローナ自身は甕をもらいうけ、それぞれがブッダの遺言に従い、半球型のストゥーパ(仏塔)を造って祀ることとなりました。

 さて、ブッダの死後に、彼の説いた教えは、彼が率いた教団はどうなったのでしょうか? その問いに答える前提として、「生前中にブッダはご自身の説法を文字には残されなかった」という点を確認しておくことが重要です。インドで初めて、解読できる文字が確認されるのは、ブッダがお亡くなりになってから暫く後、紀元前三世紀半ばに活躍されたアショーカ王がインド各地に刻まれた碑文が最初です。ブッダの生きた時代に書かれた文字は、今のところ発見されていないのです。

 また、インドではヴェーダ以来、宗教的な言葉は口伝で伝えるべきものであって、文字で記録してはならないという意識がありました。現在のヒンドゥー教の母体であるバラモン教は『リグ・ヴェーダ』をはじめとするヴェーダ文献に基づいた宗教です。このヴェーダ文献は、古代の聖仙(リシ)が神々から啓示を受けて成立したと伝えられており、司祭階級であるバラモンの間で、親から子へと口頭伝承という形で伝えられてきました。この文化は現在でも続いており、バラモンのなかでも「パンディット」と呼ばれる方々はヴェーダ文献やその注釈書を全て記憶しているそうです。逆に、こうした聖なる言葉を文字に残すことはタブーとされておりました。今でもインドの人々は自らの国を「バーラト(バラタ族の国)」と呼びますが、そのバラタ族がインダス河流域に侵入して争ったことを記した叙事詩マハーバーラタ』では「『ヴェーダ』を書き写した者は地獄に落ちる」と注意してあるそうです。

 仏教徒でも事情は同じで、教えの言葉は師僧から弟子へと口頭伝承という形で伝えられたと考えられております。京都大学で仏教学を講じられた梶山雄一先生は、若き日にインドのナーランダー仏教研究所に滞在されていたそうですが、そこで所長を務められていたカシャップ先生というスリランカで学ばれた学僧が梶山先生の前でご自身の記憶している「長部(ディーガニカーヤ)」を暗唱されたそうです。果たして、手元のテキストと一言一句違わず暗唱されたことにとても驚かれたとのことです。

 勿論、バラモン教と仏教とでは、異なる事情もあります。『リグ・ヴェーダ』をはじめとするヴェーダ文献は現在では文字になっておりますが、それは現在でも使われているサンスクリット語と同一ではありません。それらの言語は「ヴェーダ語」と呼ばれているそうです。このヴェーダ語を紀元前四世紀(※ブッダが亡くなられ、アショーカ王が出てくる間!)にパーニニという人が分析し、文法を整理したことで誕生したのがサンスクリット語になります。先述の通り、ヴェーダ語で語られたヴェーダ文献は神々から賜った言葉ですから、勝手に別の言葉に翻訳することは許されません。

 一方、ブッダがお話になった言語は、残念ながら正確には分かりません。テーラワーダスリランカやタイなどの上座部仏教)では「ブッダパーリ語をお話になった」という伝承がありますが、それは五世紀以降に創られた由緒になります。なお、ドイツのヒニューバー先生という方は「『アーリア語』を話した」という説を立てられています。

 さて、インドは広いものですから、場所によって言葉が違います。ブッダは伝道にあたって、お弟子方に「その土地の方言で話すように」とお伝えになったという話もあります。加えて、バラモン階級の言語であるヴェーダ語(のちのサンスクリット語)を採用することは望まれなかったという伝承もあります。ですから、ブッダのお言葉はインド語に限らず中国語や現代の日本語、さらには英語などにも翻訳されているので、そのことを知ったらブッダはとても喜ばれるかもしれませんね。

 大分、喋りすぎてしまいましたが、第二の理由に進みましょう。ブッダにとって、「言葉」というものは、私たちを迷いから解き放つはたらきを持つと同時に、逆に私たちを迷いのなかに閉じ込めるはたらきも持っていると考えていたからです。

 とある経典では、ブッダは「四種類の人間がいる」と語っておられ、一番問題なのは良く聞いて、良く記憶しているものの、言葉に捉われてしまっている人間だとしております。難しい話になりますが、ヴェーダ語では言葉とその意味とが一対一で対応しており、そこに解釈の余地はありません。けれども、私たちの日常の言葉ですと、言葉に対して解釈が介在するので、そこに複数の意味が生まれます。そこに、私たちの言葉の難しさがあります。

 「蛇喩経」という経典では、お弟子のアリッタに毒蛇を捕まえる時に頭を押さえれば安全だけれども、胴体を押さえると逆に噛みつかれるので危険であるというたとえ話をして、それと同じく言葉も適切に受け止めなければ自身を害することになると注意を促しております。また、そこでは有名な「筏のたとえ」も出てきます。すなわち、川を越えるために筏を作ったとして、一度川を越えたならば、その筏は捨て去らなければならないという内容です。ここで「筏」とは、言うまでもなく教えを記した言葉のことです。

バラモン教と同じく、仏教教団でもブッダの教えを口伝で継承していたと考えられますが、そこでキーパーソンとなるのが、いつもブッダの側におられたとされるのが阿難尊者(アーナンダ)です。三十五歳に鹿野苑(現在のサールナート)で行われた最初の説法(初転法輪)から八十歳の沙羅双樹(現在のクシナガラ)で入滅前に行われた最後の説法に至るまで、数多くの方に法を説かれました。特にブッダの後半生において、いつもブッダの側にいて、彼の説法を記憶していたとされるのが『大無量寿経』でも登場する阿難尊者なのです。

 

 さて、ブッダの入滅に際して、遅れて到着したマハーカッサパ尊者(摩訶迦葉)は、さる弟子の「これで我々は自由になった」という暴言を耳にします。ブッダの教えが正しく伝わらないことを危惧した最長老格のマハーカッサパ尊者は(ブッダと同じ)阿羅漢のさとりを得た五百人の仏弟子を招集します。この会議のことを結集(けつじゅう、サンギーティ)と言います。声がかかった五百人のお弟子さんの中には、阿難尊者の名前はありませんでした。阿難尊者は、阿羅漢のさとりを得ていなかったのです。けれども、ブッダの説かれた教えを後世に残すためには、ブッダの説法を一番良く記憶していた阿難尊者の存在が不可欠です。必死に修行に励んだ阿難尊者ですがなかなか目覚めの時は訪れません。結集の朝、不眠不休の修行で疲れ切って寝床に倒れ込んだその刹那、阿難尊者は阿羅漢果の目覚めを得たと伝えられております。

 いよいよ結集です。最初に摩訶迦葉尊者の前に呼ばれたのは優婆離尊者(ウパーリ)です。この方は、出家する前はブッダをはじめシャカ族の髪を切る床屋さんでした。彼は、出家者が守るべき道徳規範(戒)と教団の中で守るべきルール(律)に詳しかったため、律蔵の編纂の中心人物となりました。なお、出家者が守るべき条項「波羅提木叉(パーティモッカ)」は短い文章がズラズラと続くため、後にサンスクリット語で書かれた箴言集「スートラ」になぞらえて「スッタ」と呼ばれたという説があります。その証拠に『律蔵』のなかで「波羅提木叉」の由来を説明した部分が「経分別(スッタ・ヴィバンガ)」と呼ばれている点が挙げられます。『経蔵』ではない『律蔵』の中に「経」があるなんて、何だか不思議ですね。

 つづいて、摩訶迦葉尊者の前に呼ばれたのは阿難尊者です。阿難尊者が「私はこのように聞きました(如是我聞)」とブッダの説法について唱えだすと、周囲の仏弟子が「そうだった、そうだった」と次々と加わります。実は、この結集のインド語は「サンギーティ」といっても元々の意味は「共に唱える」という意味なのです。

こうした結集の結果、ウパーリ尊者(優婆離)を中心に、出家者が守るべき道徳規範(戒)と教団の中で守るべきルール(律)が編纂され、アーナンダ尊者(阿難)を中心にブッダの説いた教え(法)が編纂されました。また律と法に加えて、「論」も結集において成立したという興味深い伝承もありますが、それは別のところでご紹介出来ればとも思います。

ちまちま書いているもの⑦

論蔵の誕生

 

 先ほども触れましたが、パーリ仏典は「律蔵」「経蔵」「論蔵」の三つから成る「三蔵」という構成をとっております。また、インドから中国に仏教が伝わる過程で、古い経典も新しい経典も一気に伝わって翻訳されたものですから、全てを収録した仏典という意味で「一切経」あるいは「大蔵経」と呼ばれておりますが、例えば『西遊記』のモデルで有名な仏典翻訳で活躍をした玄奘が「三蔵法師」と呼ばれたように、仏典は「三蔵」から成るという認識は、仏教が伝わった世界では広く定着しているようにも思います。

 「三蔵」のうち、「律蔵」と「経蔵」については、結集伝承がありますから、その成立については比較的イメージがしやすいのではないでしょうか。再確認を致しますと、ブッダがお亡くなりになって後に、マハーカッサパ摩訶迦葉)尊者が中心となって五百人の阿羅漢果を得た仏弟子が集まり、戒律についてはウパーリ(優婆離)尊者、ブッダの説いた法についてはアーナンダ(阿難)尊者が中心となって、共に誦することでまとめられたというものです。

 それでは「論蔵」は如何でしょうか。私もそうですが「いつの間にか出来上がっていた」というぐらいのイメージを持っておられるのではないでしょうか。けれども、実際に調べてみると、とても面白いことが判明します。

 大前提として、もともとブッダの教えが文字で記録されるのは、その死後五百年ほど経過してからになります。その間、ブッダの教えは口頭で伝えられ、記憶されました。それにしても、膨大な量になるブッダの説法を、仏弟子たちはどのようにして記憶したのでしょうか。何か、そこにはテクニックがあったのでしょうか。

 テクニックとして考えられるのは、大きく二つの方法です。一つは、バラバラで覚えるのではなく、共通の主題、例えば「バラモンについて」などでまとめる方法です。こうしてテーマごとにまとめられた経典が『相応部(サンユッタ・ニカーヤ)』です。もう一つは、受験勉強の歴史の年代暗記にも通じるところがありますが、出て来る数字でまとめる方法です。例えば「一」や「二」など、教えに出て来る数字(法数)でまとめられた経典が『増支部(アングッタラ・ニカーヤ)』です。なお、この数字でまとめるという方法は、ヴェーダ文献などにもみられる、インドで広く用いられた方法の模様です。

 仏教教団では、こうした教えのテーマや法数をまとめたリストを、どうやら部派(グループ)ごとに持っていた模様です。このリストは「論母」、パーリ語で「マーティカー」、サンスクリット語で「マートリカー」と呼ばれています。パーリ仏典『論蔵』に収録された、最古の文献とされる「法集論」を確認すると、冒頭に「論母」として、まるで研究書の索引が如く項目名がズラズラっと並んでおります。その項目一つ一つに対して、本論ではどういう内容なのかを言及しているのです。なお、この「論母」が収録された「法集論」自体は後世の成立であると認められておりますが、テーラワーダ上座部大寺派)の教学の基礎を作ったブッダゴーサ長老(五世紀)は、この「論母」をブッダより与えられたものと見做していたそうです。

 どうやら、この「論母」が、その字が示すが如く、後に「論蔵」の母体となった模様です。その証拠として挙げられるのが、仏教教団のなかに「持律者」「持法者」とともに「持論母者」が挙げられていることです。この「持論母者」が、「論」を意味する「阿毘達磨(アビダルマ)」と言い換えられている事例があるとのことです。

 たとえば、説一切有部(サルヴァスティヴァーディン)という独特の教義学を大成した部派(グループ)があります。彼らの教義学は、後に天親菩薩によって『阿毘達磨倶舎論(アビダルマコーシャバーシャ)』にまとめられ、特に東アジア仏教圏における仏教の基礎学としての役割を果たします。彼らが伝承した「律蔵」である『根本説一切有部律』には、経と律の編纂を終えて後に、マハーカッサパが三十七道品、四無畏、四無礙解、四沙門果など、様々な法数でまとめられた論母を説き、それを聞いた仏弟子たちが「『阿毘達磨(アビダルマ)』が説かれた」と声を発したいう記述があるそうです。ここでは「論母」が「論」と同一に見做されていること、「論母」が結集伝説と結びつけられていることなどが注目されます。

 この「三十七道品」は『ブッダ最後の旅』にも出て来る、仏教の修行をまとめたものですが、その一部分は皆さんも耳にしたことがあるかもしれません。法事などでよく読誦される『阿弥陀経』には浄土の鳥の鳴き声として「五根・五力・七菩提分・八正道分」が出てきますが、これは「三十七道品」の一部になります。この前に「四念住・四正断・四神足」が加わり「三十七道品」を構成するのです。

 それぞれの法数および項目は、勿論バラバラに存在しているわけではなく、相互に関係しております。イギリスのルパート・ゲシン先生は、この項目ごとの相関図について「ダルマの地図」と呼んでおり、この「ダルマの地図」に基づいて出家者の瞑想がおこなわれたのではないかという興味深い説を立てておられます。

 また「論母」が「論」に展開する上で、大変興味深いご指摘がアビダルマ教義学の世界的権威であった櫻部建先生(一九二五年―二〇一二年)によってなされております。櫻部先生によれば、説一切有部が「五位七十五法」で構成される存在(=法、ダルマ)のリストとその相互関係(=縁)を明らかにした端緒は、ブッダの教説の根幹である「諸行無常」と「諸法無我」との相違であったという仮説を立てております。言い換えれば「諸『行』無常」は何故「諸『法』無常」ではないのか、「諸行」と「諸法」の違いは何なのか、ということです。そこから「無我であっても無常ではない存在があり、それは『法』ではあっても『行』ではない」と発展して、「無為法」を発見するに至ったというものです。

 この「無為法」を発見は、因果関係によって支配される「有為法」によって構成されたこの世界の分析を可能にする画期的なものでした。しかし、それは「有為法」によって構成されたこの世界「世間」と、「無為法」によるさとりの世界「出世間」との間に、分かち難い断絶を見出すことでもありました。この断絶を克服するべく、やがて登場するのがナーガールジュナになります。

 

 なお、この「論」がブッダに由来するものという点については、いくつか面白い伝承がありますのでご紹介します。皆さんはブッダの「八大聖地」について耳にしたことはありますでしょうか。ブッダの「四大聖地」は①ルンビニー(誕生の地)②ブッダガヤ(成道の地)③サールナート初転法輪の地)④クシナガラ(涅槃の地)ですが、それに⑤ラージャグリハ(布教の地、王舎城)⑥サヘート・マヘート(祇園精舎)⑦ヴァイシャリ(最後の旅の地)⑧サンカーシャ(昇天の地)の四つを加えたものです。このうち、①から⑦までは史実に基づいた場所ですが、何故か伝承の上での出来事に基づく⑧が加わっております。

 この昇天の伝承の内容は、五世紀にスリランカで活躍されたブッダゴーサ長老によれば「ブッダ祇園精舎から三十三天(忉利天)に昇って、生後七日目にして生き別れた生母マーヤー夫人などに説法し、三道宝階という階段にてサンカーシャの地に戻り、サーリプッタに説法の内容を伝え、サーリプッタも自身の弟子に説いた」というものです。実は、この三十三天でおこなった説法こそが「論(アビダンマ)」であるというのです。これは、「『論』は仏説である」という立場を補強するために用いられたと思われます。

ちまちま書いているもの⑥

縁起について

 先ほど、「ゴータマは三明を得て、四聖諦を認識し、ブッダとなった」という伝承をご紹介しました。しかし、私たち大乗仏教徒にとって、より有力な伝承として伝わったものは「ゴータマは縁起の法を得て、ブッダとなった」というものです。

 パーリ語で書かれた仏典は、「三蔵(トリピタカ)」といって、大きく「律蔵(ヴィナヤピタカ)」「経蔵(スッタピタカ)」「論蔵(アビダンマピタカ)」の三つに分かれます。このうち、最初の「律蔵」は大きく「経分別(スッタヴィバンガ)」と「犍度(カンダカ)」に分かれます。「律」のなかに「経」があるって、何だか不思議な感じがしますね。もしかしたら、この不思議な構成が後世に与えた影響について、後で触れることが出来るかもしれません。さて、後者の「犍度」は、教団において出家者が守るべき規則と、それが出来た由来について書かれております。その「犍度」内の「大品(マハーヴァッガ)」の冒頭には、ブッダの成道から二大弟子である舎利弗尊者(サーリプッタ)と目連尊者(モッガラーナ)が弟子になるまでが記述されております。

 それによれば、青年ゴータマは十二の項目からなる縁起「十二支縁起」を「順に」そして「逆に」観察したとされております。十二の項目とは①無明②行③識④名色⑤六処⑥触⑦受⑧渇愛⑨取⑩有⑪生⑫老死になります。なお、縁起は「十二支縁起」に限定されたものではなく、⑧~⑫の五項目からなる「五支縁起」や③~⑫の十項目からなる「十支縁起」というものもあります。

 この縁起の観察において、青年ゴータマが採用したのが「此縁性」と呼ばれる定型句だと考えられております。その内容は「これあるとき、かれあり、これの生じることによって、かれが生じる。これなきとき、かれなく、これの滅することによって、かれが滅する」というものです。青年ゴータマはこの定型句の前半に従って、①無明(=真理の無知)があるときに②行(=再生にみちびく行為)があり、①無明の生じることによって②行が生じる……と①から⑫まで順番に観察をおこない、最終的に①無明が生じることによって⑫老死の苦悩が生じることに辿り着きました。これは「順観」と呼ばれております。また、①無明から⑫老死の苦悩までのプロセスは、衆生の迷いの様相を表しておりますので「流転門」と呼ばれます。

 青年ゴータマは、つづいて定型句の後半に従って、①無明がないときに②行はなく、①無明が滅することによって、②行が滅する……と①から⑫まで順番に観察をおこない、最終的に①無明を滅することによって⑫老死の苦悩を滅することができることに辿りつきました。これは、日本語で考えると変な感じもしますが、伝統的に「逆観」と呼ばれております。また、①無明の寂滅から⑫老死の苦悩の寂滅までのプロセスは、衆生が苦悩から解放され、さとりへと向かう様相を表しておりますので、先述の「流転門」に対して「還滅門」と呼ばれます。

 それでは、この「順観」と「逆観」によって、ブッダは何に目覚めたのでしょうか? 仏教論理学という分野の第一人者である桂紹隆先生によれば、この「此縁性」と呼ばれる定型句は「これ」と「かれ」との間の因果関係を確定するものとされています。これを踏まえて、ブッダは「『およそいかなるものも原因なくして生じることはない』という縁起の理法・因果の道理を悟った」のだと桂先生は指摘されていますが、これを私なりに受け止め直せば、私たちの「どうしてこんなに苦しいんだ、悲しいんだ」という苦悩は決して解決不可能なものではなく、全ては因果関係の上に成り立っている以上は、そこには「無明」という原因が存在し(=集諦)、その解消方法も存在し(=道諦)、その方法を実践すれば苦悩は解消する(=滅諦)ということをブッダは明らかにされたのではないでしょうか。

 なお、この①無明の正体、そしてその解決方法については、ブッダがお亡くなりなってから五百年ほど後に南インドで活躍した、浄土真宗七高僧の一人としても知られるナーガールジュナ(龍樹菩薩)によって主著『根本中頌(中論)』において本格的に考究がなされることになります。この考究については、後で改めて触れてみたいと思います。

 さて、この縁起説をめぐってはパーリ仏典『相応部』に収録されている「城邑経」に興味深い記述があります。この「城邑経」はブッダ成道の様相を仏弟子の前で回顧する経典ですが、そこでは③識から⑫老死までの十項目による十支縁起を説きます。そこでブッダは「私は過去の正覚者たち(=諸仏)が辿ってきた道を見つけたのだ」と説いているのです。ナーガールジュナは『根本中頌』において、ブッダの説かれた十二支縁起を「空性」の教えと捉え、この空性の教えは「諸仏(=複数形のブッダ)が説かれた教え」として自説を主張しますが、こうした発想はこの「城邑経」などに由来するのかもしれません。

ちまちま書いているもの⑤

四聖諦について

 さて、これから「ブッダのさとり」言い換えれば「ブッダは何に目覚めたのか」という点について確認をしておきたいと思います。このことは、非常に根本的な事柄ですので、全ての仏教徒が共有出来ていないとおかしい事項のようにも思われます。けれども、実は古い仏典のなかでも、いくつかの伝承が併存しているのです。ただし、岩波新書『初期仏教』の執筆で知られる馬場紀寿先生によれば①「三明を得て、四聖諦を認識してブッダになる」という伝承と②「縁起法を知ってブッダになる」という伝承の二つに分けられ、伝承①から伝承②へと時代を追って変化していく模様です。よって、以下では「四聖諦」と「縁起法」に絞って、確認をしておきたいと思います。

 以前、別の場所でも書きましたが[i]、私が最初に仏教とご縁を戴いたのは二十六歳(二〇〇八年)のことです。それまでは、全く仏教の「ぶっ」の字も知りませんでした。勤めていた財団が仏教の学校を運営していたこともあり、そこで教えておられた先生が、授業の後で財団事務局までやってきて、職員に授業をして下さいました。忘れもしませんが、仏教学の授業で最初に習ったのは「四諦」でした。ホワイトボードに大きく「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦(八正道)」と書かれていたのを良く覚えております。この「四諦」は「四聖諦」とも呼ばれ、ブッダの説かれた教えの根幹をなすものとして、宗派を問わず、広く共有されているはずです。

 青年ゴータマはウルヴェーラ村(現ブッダガヤ)のピッパラ樹(後の菩提樹)の下で仏道を成就し、ブッダ(目覚めた人)となった後で、ムリガダーヴァ(鹿野園、現サールナート)に移動して、かつて苦行をともにした五人の出家者(五比丘)に初めての説法をおこないました。この初めての説法を「初転法輪」といいます。「初転法輪」は「初めて法輪を転じる」ということで、ブッダの説法の事を「法輪を転じる」と表現します。この「法輪」は仏教のシンボルとして世界中で共通のものになりますので、皆さんも目にしたことがあるかもしれません。大乗仏教圏ですと八つの輻(スポーク)からなる輪が一般的ですが、スリランカなどのテーラワーダ仏教圏ですと輻の数が二十四に増える輪が一般的になります。これは、「チャクラム(円月輪)という転輪聖王の武器をモチーフとした」など、様々な説がありますが、戦車の車輪をモチーフにしているとも伝えられます。私たちの煩悩まみれの心を征服すべく駆動しているわけです。

 余談ですが、ヒンドゥー教の国であるインドの国旗の真ん中には、何故か法輪がマークとして入っております。国旗制定の際に、ブッダ初転法輪の地であるサールナートから出土した法輪を入れようと提案したのが、インドの被差別民(ダリット)の出身で苦学の末に法務大臣にまで登り詰め、死の直前にヒンドゥー教から仏教に改宗することでインドにおける仏教復興の道を切り開いたアンベードカル博士(一八九一年-一九五六年)です。

初転法輪の説法の内容は「初転法輪経」など、様々な経典で語られますが、最初に「中道」について説き、続いて「四聖諦」と「八正道」について説かれたと伝わっております。「中道」は、後世になって意味が大きく展開しますが、成立が古いとされる仏典を確認しますと愛欲を貪る「快楽主義」と自らに苦行を課す「苦行主義」といった極端な二つの道を離れることが涅槃に至る道だとされています。ブッダの伝記である「仏伝」のなかには、若き日のゴータマは快楽に身を委ねたという記述もあり、また王子である身分を捨て出家した後には厳しい苦行をおこなったことは良く知られております。ブッダが最初に中道を説かれたのは、自身の体験を踏まえたからに相違ありません。

 さて、肝心の「四聖諦」ですが、先ほどお伝えしました通り「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」の四つから成ります。「諦」というと、日本語では「あきらめる」というネガティブな意味合いが思い浮かびますが、パーリ語で「サッチャ」、サンスクリット語で「サティヤ」といいまして「事実」という意味だそうです。また、伝統的には「真理」という訳語が用いられてきました。

 「苦諦」は「一切はドゥッカである」という事実とされます。この「ドゥッカ」という語は、伝統的に「苦」という訳語が用いられてきましたが、「苦しみ」以外に「不完全である」というニュアンスでも用いられる言葉だそうです[ii]。つづいて「集諦」は「苦集諦」とも呼ばれますが、「ドゥッカは渇愛(タンハ)を原因とする」という事実とされます。この「苦諦」と「集諦」との間には、因果関係(苦諦…結果、集諦…原因)が見出せるというのがポイントとされております。

 つづいて「滅諦」は「渇愛を滅することで、ドゥッカが滅する」という事実とされます。最後の「道諦」は「ドゥッカが滅する方法は、八正道の実践である」という事実とされます。この「滅諦」と「道諦」についても、「苦諦」と「集諦」と同様に、因果関係(滅諦…結果、道諦…原因)が見出せるのがポイントとされております。

 後で再び触れることにもなりますが、青年ゴータマがブッダになった際に、何に目覚めたのかという点については、いくつかの伝承があります。その中でも、最も古い伝承とされているのが「三明を得て、四聖諦に目覚めた」というものです。「三明」とは、もともとはバラモン教の三つの聖典(三ヴェーダ)を意味しておりましたが、ブッダは「宿命通(衆生の過去を見通す力)」「天眼通(衆生の業による輪廻を見る力)」「漏尽通(もはや再生しないと知る力)」と読み替えて使っております。この最後の「漏尽通」を得たことによって、「四聖諦」に目覚めたとされているのです。確かに、『サンユッタ・ニカーヤ』の中の「バラモン相応」という箇所を開いてみますと、バーラドヴァージャというバラモン(※この箇所に出てくるバラモンは全部同じ姓です)がブッダに「三明について言ってみろ」と挑発するのですが、ブッダは自身の「三明」の定義をもってそれに答え、結果このバラモンブッダに帰依する身となります[iii]

 さて、この「四聖諦」については、従来は「四つの聖なる真理」という訳語が用いられてきました。しかし、初期仏教の専門家である榎本文雄先生が「四聖諦」の原語の使われ方を網羅的に確認したところ「聖(アーリヤ)」を「聖なる」ではなく「聖者にとっての」と訳す方が原意に即しているという説を出されました[iv]。ですから、「四聖諦」は「聖者にとっての四つの事実」と解釈するのがベターだということになります。

 ここでの「聖者」とは、勿論ゴータマ・ブッダのことですが、真宗門徒にとって七高僧でおなじみの龍樹菩薩(ナーガールジュナ)も「聖者」と見做されているそうです。一方、天親菩薩(ヴァスバンドゥ)は「聖者」とは見做されないそうです。龍樹菩薩は初地の菩薩とされますが、天親菩薩は初地に上がっていないとされているからだそうです。個人的に、天親菩薩に私淑している私としては、ちょっとショックな結果です。

 さて、私の友人のお坊さんのほとんどは、同じ浄土真宗の僧侶です。けれども、京都で一緒に働いたご縁もあって、数人の浄土宗のご僧侶ともご縁を戴いております。やや冗談めかしてではありますが、仲間うちでは件の浄土宗のご僧侶を「お上人」と呼んでおりました。余談ですが、仏教の部派(グループ)について、頭に「聖」の原語である「アーリヤ」を冠する場合があるそうです。榎本先生によれば、在家信者からみれば出家の比丘は皆「聖者」と見做されたからではないかと指摘しておりますが、その人自身が龍樹菩薩と同じ「初地の菩薩」かどうかは兎も角、同じ浄土門であっても、真宗僧侶とは異なる仏道を歩んでおられる浄土宗のご僧侶を「お上人」と仰ぐ姿勢と通底するものを感じ、なんだか不思議な感じが致しました。

 話を元に戻しますと、仏教の初心者が最初に教わるのは「一切はドゥッカである」から始まる「四聖諦」です。けれども、それを本当に認識出来るのはゴータマ・ブッダや「智慧第一」と称されたサーリプッタといったごく僅かな仏弟子、あるいは龍樹菩薩といった限られた存在だけです。私たちが、この凡夫の身のままで「一切はドゥッカである」から始まる「四聖諦」を認識するのは、限りなく不可能に近いと言わざるを得ません。

 また、後世になりますと、この「四聖諦」の認識によって得られるのは、ブッダ智慧ではなく阿羅漢の智慧とされます。勿論、この背景には「私たちが偉大なブッダと同じ智慧を得るのはおこがましい。私たちが目指すべきは仏弟子としての阿羅漢である」という仏教の部派(グループ)のなかでの受け止めの変化があります。ただし、阿羅漢ではなく、ブッダを目指す菩薩たらんとする大乗仏教徒、特に凡夫であることを出発点とする私たち真宗門徒にとって「四聖諦」を「仏教の根幹である」と素朴に受け止めることは、ちょっと無理があるのではないかとも感じる次第です。

 大乗仏教徒として、ゴータマ・ブッダの説かれた教えをどのように受け止めていくべきなのでしょうか? 難しい問いですが、皆さんと一緒に考えていきたいとも思います。

 

[i] 拙著『ニセ坊主-僧伽を思う:真宗大谷派本願寺維持財団-』響流書房、二〇一五年

[ii] ワールポラ・ラーフラ、今枝由郎訳『ブッダが説いたこと』岩波文庫、○○ページ

[iii] 中村元訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』岩波文庫、○○ページ

[iv] 榎本文雄「「四聖諦」の原意とインド仏教における「聖」」『印度哲学仏教学』二四、二〇〇九年

ちまちま書いているもの④

アートマンについて

 ゴータマ・ブッダバラモン教ジャイナ教を踏まえながらも、それまでには無かった仏教という教えを明らかにしました。もちろん、仏教徒である私たちにとって、これは当たり前のことです。それでは、ブッダは何故新しい教えを明らかにする必要があったのでしょうか。それまでの教えでは、どうして満足できなかったのでしょうか。そのように一歩進んで考えてみますと、意外とややこしい問題であることに気が付きます。

 そもそも、ブッダは何故シュラマナとなったのでしょうか。ブッダが亡くなられてから、五百年ほど後の人物となりますがアシュヴァゴーシャ(馬鳴菩薩)という仏教詩人の手による『ブッダチャリタ(仏所行讃)』という仏伝によれば、耕作された畑の中に引きちぎられた虫を見て、また耕作で使役される牛の疲れた様子を見て、悲しみに満ちたゴータマはジャンブ樹(閻浮樹)の下に坐り瞑想しますが、そこに(実は天界から来た)出家者が現れ「世の本性は消滅ですから、私は、解脱を望んで、かの不滅の吉祥な境地を求めています」と告げました[i]。これによって、ゴータマは出家の意志を固めたとされております。これは『仏説無量寿経』の「見老病死、悟世非常(老病死を見て、世の非常を悟る)」という記述とも趣旨は一致します。ゴータマは「かの不滅の吉祥な境地を求めて」出家したわけです。

 出家したゴータマは、最初にアーラーラ・カーラ―マとウッダカ・ラーマプッタという二人の師につきました。伝承によれば、アーラーラ・カーラ―マからは「空無辺処」の境地を教わり、ウッダカ・ラーマプッタからは「非想非非想処」の境地を教わり、即座にその境地を得たと伝わっております。けれども、それはゴータマの求める道ではないとして、六年間の苦行生活に入ったとされております。

 何故、これらの境地にゴータマは満足しなかったのでしょうか。パーリ仏典の『中部』に収録されている「聖求経」には両者ともに「この教法は(中略)ニルヴァーナの獲得に役立たない」とのみ記されております[ii]。また先述の『ブッダチャリタ』によれば、アーラーラ・カーラ―マとウッダカ・ラーマプッタの両者ともに「アートマンを認めているので受け入れられなかった[iii]」としております。それでは「アートマン」とは一体何でしょうか。

 実は「アートマン(我)」とはバラモン教で用いられた概念です。インド最古の文献である『リグ・ヴェーダ』にも出て来る言葉で、服部正明先生によれば「呼吸」から派生して、「生きものを『いきいきと』させるもの」がもともとの『リグ・ヴェーダ』における意味だそうです[iv]。その後、ブッダが世に出て来る少し前に、「ウパニシャッド」と呼ばれる哲学的な文献が出てきますが、その中では日常経験のなかで自己と見做している「虚妄の自己」とは異なる、自己の内部に潜む微細な「本来の自己」としてアートマンを捉える思想が生まれてきます。

 このウパニシャッド文献をめぐる思索の深まりのなかから、仏教をはじめとするインド思想に深い影響を及ぼした輪廻の思想が出て来ることとなります。そして、輪廻の主体としてアートマンが注目されるのです。その上で、死の後に再び生まれる境遇の良し悪しを決定するのが、生前におこなった行為の余力(=業)と獲得した知識であるとしたのです。

 それでは、どのようにしたら輪廻から解放されるのかといいますと、現世的なもの(子孫や財産など)への欲望を捨て、「すべての存在物を存在物たらしめている最高実在」である「ブラフマン(=梵)」と一体のものとしての「本来の自己」である「アートマン(=我)」を自らの内面に見出すこと(=梵我一如)とされるのです。

 さて、仏教は「諸法無我(=あらゆる存在に我は無い)」が大前提となりますから、仏教徒である我々にとって「アートマン」は無縁であると思っておられるかもしれません。けれども、それが「アートマン」だとは思っていなくても、皆さんのものの考え方の中に、いつの間にか「我」という考え方は忍び込んでいる感じがしませんか? 逆に「無我」という考え方は、私たち日本人の発想と馴染みにくい印象すら、少なくとも私は持ってしまいます。

アートマン」抜きに物事を考える難しさは、インド人も共通していた模様です。例えば、ブッダが亡くなってしばらく後に、仏教教団はいくつものグループ(部派)に分かれてしまうのですが、そのなかの一つ「犢子部」という部派は輪廻という事実を説明するために「プトガラ」という「アートマン」と良く似た概念を導入しましたし、天親菩薩を輩出した瑜伽行派唯識思想を説きますが、そこでは「阿頼耶識」が輪廻するのだという説を立てております。

東本願寺にご縁のある方は「阿頼耶識」と聞くと、曽我量深師の「法蔵菩薩阿頼耶識である」という主張が思い起こされるかもしれませんが、師である清沢満之師の「自己とは何ぞや」という問いとともに、そこに「アートマン」とよく似た発想を汲み取ることも可能です。また『涅槃経』に説かれる「仏性」は、如来蔵思想を生み出します。この如来蔵思想は、禅宗に大きな影響を与えた思想になりますが、やはり「アートマン」とよく似た発想であるという批判があります。また鈴木大拙居士の最初期の著書に大乗仏教の精髄を世界に発信しようとした『大乗仏教概論』がありますが、和訳した佐々木閑先生は大拙大乗仏教の理解に、(「アートマン」を前提とした)ヒンドゥー教的な要素も読み取ることが出来、それは現在の日本仏教のあり方を反映しているとまで述べておられます。

 「梵我一如」を説くウパニシャッド哲学を引き受け、後にヒンドゥー教を支えるヴェーダーンタ思想として大成したのは「不二一元論」を説く八世紀の思想家シャンカラですが、そのシャンカラ研究の世界的権威でもある前田專學先生によれば「大乗仏教ヒンドゥー教の対外輸出バージョン」だということです。このご発言をどのように受け止められるかは、皆さんそれぞれだとも思いますが、ブッダが否定した「アートマン」の発想は、形を変えて私たちの仏教の中に生きていると評価することも出来るかもしれません。

 

[i] 『完訳 ブッダチャリタ』梶山雄一ほか訳註(講談社学術文庫、二〇一九年)五五頁

[ii] 早島鏡正『ゴータマ・ブッダ』(講談社学術文庫、一九九〇年)二三八―二四二頁

[iii] 『完訳 ブッダチャリタ』梶山雄一ほか訳註(講談社学術文庫、二〇一九年)一四〇頁

[iv] 服部正明『古代インドの神秘思想』(講談社学術文庫、二〇〇五年)一二四頁

ちまちま書いているもの③

沙門(サマナ)の宗教

 また、ブッダが誕生する少し前には、社会的に大きな変動が起こります。やや教科書的な言い回しになりますが、交易が盛んになって、仏典にも出て来るヴェーサーリーなどの都市部が繁栄するようになったのです。バラモンの祭式は、農作物の豊作を願う側面が強く、農業に従事する階層には人気が高かったのですが、王族階級であるクシャトリヤやヴァイシャの中でも商業に従事する人々には縁の遠い側面がありました。しかし、都市が栄え、そこに住まうクシャトリヤやヴァイシャの力が増す中で、今までのヴェーダ文献に基づくバラモンの教えの外で、新たな宗教を模索する動きが出てきます。

 そうして出てきたのが「サマナ/シュラマナ(沙門)」と呼ばれる出家者集団です。「サマナ」とは、もともとは「努力する人」という意味で、その字の如く、自ら道を求めて修行(=努力)する存在です。こうした「サマナの宗教」の一つが仏教になります。なお、親鸞聖人が『教行信証』に引用される『涅槃経』には「六師外道」として、六人の思想家の説が紹介されておりますが、いずれも当時の代表的な「サマナの宗教」になります。実は、パーリ仏典『長部』に収録された「沙門果経」にも、この六人の思想家が登場し、『涅槃経』と同様に(※『涅槃経』は家臣を通じてではありますが……)マガダ国王アジャータサットゥ(阿闍世王)との対話をおこなっております。その内容も踏まえながら、この六人の説いた教えの概要を見ていきたいと思います。

 

  • プーラナ・カッサパ(非業論)
  • マッカリ・ゴーサーラ(運命論)
  • アジタ・ケーサカンバリン(唯物論
  • パクダ・カッチャーヤナ(要素集合主義)
  • サンジャヤ・ベーラッティプッタ(不可知論)
  • ニガンダ・ナータプッタ(マハーヴィーラジャイナ教開祖)

 

一人目のプーラナ・カッサパが説いたのは非業論と呼ばれております。彼は、魂は不生不滅であるから、どんな行為(業)をおこなったとしても善にも悪にもならないと説きました。彼は、このことを道徳無用論として主張したため、後に仏教の立場から「邪見」と見做されました。後世の仏教側の伝承では、ブッダの神変を目の当たりにして自死し、地獄に落ちたとされております。

二人目のマッカリ・ゴーサーラはアージーヴィカ教という、仏教とジャイナ教と並んで有力だった教団を率いたと伝えられております。彼が説いた教えは運命論と呼ばれております。すなわち、全ては宇宙を支配する原理(ニヤティ)によって宿命付けられているとして、人間の意志に基づく行為(業)の意味を否定しました。衆生が輪廻しているのは運命によるものであり、そこから解脱するのも運命によるものであるため、(やがては餓死に至る)苦行を通じて宿命を受け入れる境地を目指していたと考えられております。

三人目のアジタ・ケーサカンバリンはローカーヤタ(順世派)の開祖として知られます。彼は、全ては地・水・火・風の四要素から成るので、ウパニシャッドで説かれるようなアートマンは存在しないと説きました。また、全ては四要素から成る以上、(魂の存在を前提とする)業や輪廻の存在を認めず、また善や悪の観念に基づく道徳も不要とし、現世の快楽を追求するという生き方を説きました。これは、「この現象世界は熱・水・食物という三要素の組み合わせによって成り立っている」というウッダーラカ・アールニの主張と(世界の根源を認めないという点では大きな違いがありますが)ある意味で地続きとも言えそうです。

四人目のパクダ・カッチャーヤナは、アジタとよく似た発想をします。アジタは、全ては四要素に還元出来ると説きましたが、彼はそこに苦・楽・命という三要素を加えた七要素説を唱え、それぞれの要素は互いに干渉しないものと説きました。彼によれば、例えば誰かが剣で首を切られたとしても、それは要素間の隙間を剣が通るだけの話で、「誰かが誰かの命を奪う」という行為にはならないとされます。

五人目のサンジャヤ・ベーラッティプッタは、後にブッダの高弟となるサーリプッタ舎利弗)とモッガラーナ(目連)がかつて属した教団とも伝えられております。彼は、バラモン教で盛んに議論をされていた、例えば「来世はあるか」といった形而上学的な問題について、「真理をあるがままに認識し、説明することは不可能である」という不可知論の立場を取りました。この考え方は、「形而上学的な問いには答えない」というブッダの「無記」の考え方にも通じるものであり、単なる思想家ではない実践家としてのブッダを準備する存在であったと考えることも出来そうです。ただし、「沙門果経」では阿闍世王より「あいつは言い逃れをしている」と受け止められ、その怒りをかっております。

六人目のニガンダ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)はジャイナ教の開祖です。ニガンダは、ブッダとほぼ同時代の人物であり、また同じガンジス川中流域にて活動をしておりました。ジャイナ教は「空衣派」といって一糸まとわぬ裸形にて苦行をおこなう教え(※後に「白衣派」といって、白い衣を着る派も分派しました)で、インドのなかで現在も有力な宗教の一つです。仏教経典のなかにはジャイナ教についての記述がしばしば出て来るそうです。

例えば「沙門果経」では、「出家して沙門となることで、どのような果報があるか」というアジャータサットゥの問いかけに対し、「私は四種の自己制御という防壁に守られている」と返します。この返答でも分かるように、ジャイナ教では自分の外の刺激が内側に入ってこないように感覚を制御することが重要視されます。

なお、ジャイナ教では霊魂(ジーヴァ)の存在を主張し、このジーヴァに行為(カルマ)によって業物質が流入することで輪廻すると考えられておりました。そこで、ジーヴァに新たな業物質が流入せぬように行為を起こさず、また過去の行為の結果を消滅させることで解脱に至ろうと考えていた模様です。

ジャイナ教の思想の特徴としては、様々な視点から物事を捉える「相対主義」にあるそうです。物事を特定の観点から「こうだ」と決めつけるのを避けて、「ある点からすると(スヤート)」と限定をしつつ、様々な観点から考察を深めていくのだそうです。現在ではSNSなどで、些細な観点の違いから言い争いが起こったりもしますが、ジャイナ教の「相対主義」から学ぶ点は多いようにも感じます。

また、イギリスの上座部仏教研究者であるリチャード・ゴンブリッチ先生は、バラモン教とともに仏教が踏まえたであろう思想としてジャイナ教の存在に注目しており、ブッダが六年間実践した苦行はジャイナ教の苦行だったのではないかという興味深い説を立てております。私に仏教を学ぶ楽しさを教えて下さった先生は、若き日にジャイナ教の施設に滞在していたそうですが、髪の毛や髭を自らの手で抜くなどの様子を見たそうで、その苦行は苛烈を極める模様です。

 ブッダは、こうしたバラモン教の祭祀主義やウパニシャッドが明らかにした業・輪廻の思想、そしてジャイナ教の苦行や思想などを踏まえながら、新たな思索を開拓していくことになるのです。